幼少の頃に、自分は無力であると突きつけられた子どもは、これを否定するために今度は自分にとって力がある者、つまり親のような人間を、他者に対して演じることがあるという。

 

自分は無力ではないと確認するために、元被害者が加害者へと変貌する。

 

私は既に、加害者になってしまったように思う。

 

他人をコントロールしようとすることをやめられない。実際にコントロールできるかどうかということとは別に、コントロールしようとすることをやめられない。私の怒りも涙も全部、他人をコントロールするための道具でしかないのかと思うと、また自分の全てが嫌になる。

 

所詮、パワーゲームである人間関係しか知らないのかもしれない。

 

自分より力があると思った相手にはコントロールされ、自分の方が力があると思った相手はコントロールしようとする。私にはどちらかしかなかったように思う。

自分がコントロールされる側にいるときは、あんなにも対等な関係を望んだというのに。

 

好きだった人達は、このことに気がついていたのだろうか。私との関係では、コントロールする側か、される側、どちらかにされてしまうと。

 

 

 

去年好きな人と行った初夏のフェスに、今年も行こうと思っていた。

去年のフェスの終わりには、来年もまた一緒に来られるかな、なんて思っていた。

徐々に変化していき、いつからか好きな人がここにいなくても、必ず行こうと思っていた。

 

コロナの影響で中止になった。

 

まあそうだよね、と思っていた。

じわじわと、辛くなってきた。

 

1人でも、別の人とでも、このフェスを楽しめる、この人生を楽しめると思いたかった。そのために、同じ季節に、同じフェスに行く作業が私には必要だった。

 

思い出のあるバンドのツアーも中止になった。もしかしたら、会えるかもしれない。会えなくても、同じ空間で同じ音楽を聴いていたかもしれないと思えれば、救いになった。同時に、1人でも楽しめると思いたかった。

 

忘れようとしているのか、そうでないのかわからないけれど、おそらく両方で、こんなごちゃごちゃのまま私は生きている。それを少しずつ整理して、今年はさよならしたかった。

 

あの初夏のことを思い出すのはきっと私だけだから、せめて私だけはこの思い出を大切にしたいのに、どう扱ったらいいのかわからない。

 

仕事は在宅でできていますか?

 

一人暮らしで、必要な物は買えていますか?

今はタイミングが合わないとなかなか買えない物もあるから。

 

本人に直接声をかけたいけれど、そうする術がなくて苦しい。

 

迷い

相手の家に向かうということで乗っていた電車から、何も言わずに降りてきた。ドアが閉まって、窓から相手が苦笑しているのが見えたので、笑顔で手を振った。

渋谷駅のホームで電車を待っているとき、既に家で待つ人の顔が頭に浮かんでいた。降りたのは家に帰るのに使う乗換駅。あなたの家に行く気など、さらさらなかったのです。さようなら。

1人で部屋で泣いていたら、今までにないくらいはっきりと自分には価値がないと思った。

数年ぶりに『ブリジット・ジョーンズの日記』を観たら、ダニエルの家に別の女の人がいたシーンで限界がきてしまった。ブリジットが受けたダニエルからの扱いの苦しさを、今は知っている。初めて観た高校生の頃には知らなかった苦しさ。

 

ブリジットが「昨日あなたを愛していると言ったけれど、あれは嘘よ。口先だけ。」と言う。本当は好きで好きで仕方がなくても、自分が惨めにならないようにそう言うしかなくて、私も同じような嘘をつく。

 

自分には価値がないと日頃から思っているのに、情緒を無視してセックスだけが求められ、また私にはこの程度の価値しかないのだと思わされる。もう許して欲しい。

 

最近はなかなか寝られず窓を開けてしばらく死ぬか生きるかの境界線に手を置いてうじうじしている。死ぬこともできずうじうじしている姿が、頑張っている立派な人達をまた苛つかせるのだろうな。

 

頓服を飲んでも涙は止まらないし、泣いても何も変わらないし、欠陥だらけなのに対人支援の本を読んでいて、もう何がなんだかわからない。

「ほのちゃんはいつも嘘をつく。」

言われるまで気がつかなかったけれど、そうかもしれない。

 

私は嘘を毛嫌いするわりに、自分はよく嘘をつくかもしれない。

 

私が嘘を毛嫌いするのは、父親の嘘から受けたダメージが、当時の私にはあまりに大きすぎたからだと思う。

 

「汚いよね。」

電話越しに、震える声で、初めて父親に反抗的な態度をとった。

「世の中綺麗なことばかりじゃないからね。」

不倫をした父親から返ってきた言葉。

 

裏切ったり裏切られたり、情緒的な繋がりのない関係が存在するこの世界で私は生かされている。

 

騙された人を笑うために嘘をついているわけじゃない。保身のために嘘をついている。だけどそんなのはみんな同じで、私だって十分に汚かった。

 

自分が本当に思っていることを否定されたくなくて、これ以上馬鹿にされたくなくて、傷つきたくなくて、損をしたくなくて、私は嘘をつく。

 

「自分の都合のいいように」というのはこういうところなんだろうな。

傷つくことを恐れずに、自分の気持ちを素直に表出している人は立派だと思う。その人達に対して、私は卑怯だと思う。

 

卑怯だと思うと同時に、自分の気持ちを素直に表出できる環境があったこと、受け止めてくれる人がいたことを羨ましいとも思う。あんな場所にいた私に、同じことを求めないでくれと。

 

自分が本当に思っていることを、父親の前で話したことがない。怖くて話せなかった。正しいとされるであろうことしか言えなかった。そのうちにいつの間にか自分が何を感じているのかわからなくなってしまったらしい。

 

それでも周囲の人からしたら嘘は嘘でしかなく、信頼をなくしていく。

 

言うことが変わるのは、自分の考えや気持ちが変化しているからだと思っていたけれど、自分はこう考えてこう感じていると思ったことを言ってみても、本当に自分が考えていること、感じていることがわからないから、やっぱりこうかもしれないところころ変わっていっているのかもしれない。

これもまた周囲の人からの信頼をなくしていく。

 

ACジャパン(アダルトチルドレン日本代表)

 

 

amazarashiの曲を聴き始めてしまいました。助けてください。

 

「頭で考えてばかり。もっと自分の気持ちを大事にしなきゃ。」

職場の人からの言葉。

それなら、私の感覚から教育し直してくれよ。

 

私が一度頭を通してしまうのは、自分の感覚を信じていないから。平均的とはいえないであろう家庭で育まれたこの感覚は、どうやら平均的ではない部分があるようだと認め始めたのは最近。

 

私の家庭はたしかに居心地のいいものではなかったし、歪だったけれど、私は公的機関に保護までされたことはないし、虐待を受けたと、自分は被害者だと声高に言える程じゃないと思っていた。思っている。だけどたしかに、生きにくさを感じている。

 

私は抱きしめられたときの温かさが心地よさに繋がるように、傷ついたときの痛みが心地よさに繋がってしまっているのだと思う。

それは、父親とのコミュニケーションが常に苦痛を伴うものだったからだと今は思っている。苦痛であったとしても、相手はかけがえのない唯一の父親で、父親から認めてもらい、愛情を獲得したいと思っていたはず。初めて愛されたいと思った人との関係は、ずっと苦痛を伴うものだった。それが私の当たり前の関係だった。

 

「君との関係においてはセックス以外には用がないということだからいつものように自分の都合のいいように解釈しないように」

 

どんな形であれ、自分の当たり前、自分が知っているものというのは安心感を与えるのかもしれない。

私は傷つくことをやめられない。傷つけば痛くて苦しいし、傷つきたくないと思っている。だけど最近、それが本当なのか、純粋にそう思っているのかわからない。私は、自分を傷つけてもらうために相手を傷つけているかもしれない。再体験の状況を作り出すように相手に仕向けているかもしれない。

 

苦しい関係を数年続け、付き合い始めて私を大切にするようになった相手を裏切って、別の人と付き合い始めた。

最後の1年はセックスをしなかった、関係性がわからなすぎて苦しかったセフレからはなかなか離れられなかった。

付き合い始めた人はアプリで出会ったにも関わらず優しくて、普通に付き合ってくれた。裏切ってアプリを始めたことがバレて相手もアプリを始め、別れた。

よりを戻すも少しの喧嘩で相手がアプリを始め(最初からやめてなかったかもしれないが、本当のことはわからない)、めちゃくちゃに喧嘩をして別れる。

ちょこちょこちょっかいを出し、遂にセフレにされそうになり拒否したときの捨て台詞。

 

私を大切にする人には用がないとでもいうように裏切って、裏切られた恨みで私を傷つけてくれるようになった相手にちょっかいを出す。どうしようもなくて自分でも呆れてしまう。だけどどうすればいいのかわからない。一般的に幸せといわれるような形をつくることはできても、気持ちがついてこないバグ。

「仄は椎名林檎自由へ道連れみたいだね」

いつか、大好きだった人が言ってくれた。

 

恋愛感情の有無にかかわらず、誰ひとりとて失いたくない。(千葉と話して、できるだけ多くの人間に認めてもらいたいのかもしれないと思った。自己肯定感がないのかもしれない。)

 

失いたくないといつまでも過去の人達に執着していると、今ここにいる人達を失うのだと思う。私はそうやって何人かを失って、ようやっと思い至った。

 

過去の人が増えると、過去の重みが増して、過去に引きずる力が強くなるような気がする。だからもう過去の人を増やしたくない。もう背負いきれない。

 

本当のことを知りたくて、いつまでもあの時のあの人が思っていたことを考える。わかるはずもない。

 

対人関係は、1度間違えると取り返しがつかないように思う。綱渡りをしているような気になる。

 

気軽に新しい出会いができるけど、終わってもずっと残るものだからもう気軽に出会いたくない。抱えきれないのだから、出会いに対して慎重になる必要がある。出会ってしまったなら仕方ないと観念するしかないけど、どうして手に余るのに出会いにいってしまったんだろうと思う。それでもやっぱり新しい出会いが欲しいと思う部分もある。

 

破壊と建設を繰り返すしかないのか?破壊は繰り返したくなくない?建設だけし続けるなんてこと無理なのかもしれないけど。破壊も繰り返して生きるしかないのか?そんなことはなくて私がおかしいだけか?

 

ただビビってるだけのような気もする。傷つくのが怖いから人と関わらないスタイルをとるのか?ビビって生きるのは嫌だとも思う。

 

破壊と建設を繰り返して過去の人達を背負っていくか、過去の人を増やさないように慎重に生きるか、どっちかしかないのか?慎重に生きても増えてしまう過去の人はあるだろうし。

 

もっとどうでもいい人との関係から学べたらいいのに、自分にとって価値ある人でなければ喪失体験となり得ないことがもうつらい。