amazarashiの曲を聴き始めてしまいました。助けてください。

 

「頭で考えてばかり。もっと自分の気持ちを大事にしなきゃ。」

職場の人からの言葉。

それなら、私の感覚から教育し直してくれよ。

 

私が一度頭を通してしまうのは、自分の感覚を信じていないから。平均的とはいえないであろう家庭で育まれたこの感覚は、どうやら平均的ではない部分があるようだと認め始めたのは最近。

 

私の家庭はたしかに居心地のいいものではなかったし、歪だったけれど、私は公的機関に保護までされたことはないし、虐待を受けたと、自分は被害者だと声高に言える程じゃないと思っていた。思っている。だけどたしかに、生きにくさを感じている。

 

私は抱きしめられたときの温かさが心地よさに繋がるように、傷ついたときの痛みが心地よさに繋がってしまっているのだと思う。

それは、父親とのコミュニケーションが常に苦痛を伴うものだったからだと今は思っている。苦痛であったとしても、相手はかけがえのない唯一の父親で、父親から認めてもらい、愛情を獲得したいと思っていたはず。初めて愛されたいと思った人との関係は、ずっと苦痛を伴うものだった。それが私の当たり前の関係だった。

 

「君との関係においてはセックス以外には用がないということだからいつものように自分の都合のいいように解釈しないように」

 

どんな形であれ、自分の当たり前、自分が知っているものというのは安心感を与えるのかもしれない。

私は傷つくことをやめられない。傷つけば痛くて苦しいし、傷つきたくないと思っている。だけど最近、それが本当なのか、純粋にそう思っているのかわからない。私は、自分を傷つけてもらうために相手を傷つけているかもしれない。再体験の状況を作り出すように相手に仕向けているかもしれない。

 

苦しい関係を数年続け、付き合い始めて私を大切にするようになった相手を裏切って、別の人と付き合い始めた。

最後の1年はセックスをしなかった、関係性がわからなすぎて苦しかったセフレからはなかなか離れられなかった。

付き合い始めた人はアプリで出会ったにも関わらず優しくて、普通に付き合ってくれた。裏切ってアプリを始めたことがバレて相手もアプリを始め、別れた。

よりを戻すも少しの喧嘩で相手がアプリを始め(最初からやめてなかったかもしれないが、本当のことはわからない)、めちゃくちゃに喧嘩をして別れる。

ちょこちょこちょっかいを出し、遂にセフレにされそうになり拒否したときの捨て台詞。

 

私を大切にする人には用がないとでもいうように裏切って、裏切られた恨みで私を傷つけてくれるようになった相手にちょっかいを出す。どうしようもなくて自分でも呆れてしまう。だけどどうすればいいのかわからない。一般的に幸せといわれるような形をつくることはできても、気持ちがついてこないバグ。